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  • 執筆者の写真伊藤史織

私の翻訳人生(翻訳者になるまでストーリー3)

更新日:7月30日

さてさて大学卒業後は、2人目を妊娠していたこともあり、自宅で育児に専念します。が、ここからまた一波乱。


夫の実家近くに越して周りに知り合いがいなかったこと、大学卒業後は友人と会う機会がめっきり減ったこと、家族への憧れの強さから理想の母親を演じようとしたこと、生き別れた父親と会えていなかったこと、頻繁に遊んでいた友人が自ら命を絶ったこと、いろんなことが絡み合ったのでしょう。私は心の病にかかってしまいます。


この辺りはあまり記憶がありませんが、闘病をきっかけに子供たちを保育園に預けるようになったことが大きな転換点になります。


懸命に「いい母親」でいようとした私に、子供と離れる時間ができました。症状が落ち着くとともに、「私はこれから何をするのか」と向き合えるようになったのでしょう。通訳学校に再び通う気力はありませんでしたが、自宅で翻訳の修士号を取得できることを知り、挑戦します。


日本の翻訳学校が母体となって、ハワイに籍を置くことで完全通信制での学習が可能となった、バベル翻訳大学院です。修士号もアメリカのものになります。


フリースクールでの学びをきっかけに「勉強大好き人間」になっていましたから、こつこつ家で勉強できるスタイルはぴったりです。さらには、自分のペースで受講できるため、無理もしなくて済みます。


さっそく入学試験を受けると、ありがたく合格。確か入学金を免除してもらえたような…(そこらへんは、やはり記憶があいまい。本当に優秀な方は学費免除もあったような。当時の話ですが)。


記憶があいまいななかでも、英日翻訳でしか考えていなかったのを、この試験で「日英翻訳のセンスがある」と評価していただいたことはよく覚えています。現金なもので、うれしい出来事は覚えているのですね。


とはいっても、やはりターゲット言語は母語の方がいいような気がして、日英翻訳はその後もほぼ手掛けていません。細かな表現は母語の話者が適していると思うのです。ただ、「ソース言語が母語の方が、細かなニュアンスを読解できていい」というのも分かるのですが。


大学院の専攻は、大学時代に字幕翻訳の簡単なレッスン本のようなものを読んで楽しかった記憶があったため、出版・映像を専門とした文芸専攻にしました。


映画は、小学生の時から1人で電車に乗ってレンタルビデオ店に通うほど好きでした。1人で映画館にも行くような子供でした。しかもなぜか、昔から吹替より字幕派でした。この字幕好きが今につながっているのでしょう。小説も好きです。


同校への入学を決めたのが26歳。思えば、この時の覚悟こそが、私の翻訳人生のスタートだったのかもしれません。

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